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2015-09-11 08:44:35

宮川の歴史 その3


 


 



さて日本一の清流「宮川」は急峻な大台町(旧宮川村)を経て、一気に伊勢平野に流れ込む。


 


落差のある川が突然平野部に流れ込むわけだ。


大雨が降ると氾濫することも日常茶飯事だったという。


 


 


そこで人々はこの宮川を「暴れ川」の名で呼んだ。


台風1


 


 


梅雨の時、そして台風が紀伊半島を直撃した時、秋雨前線が停滞した時、人びとは宮川の氾濫を何度も目の当たりにした。


 


伊勢平野(現在の伊勢市)は、そういった歴史の繰り返しだ。


 


 


この「暴れ川」は氾濫するたび、伊勢平野を肥沃な農地へ変えていった。


しかし伊勢の人びとにとっては、農業生産性向上とは裏腹に困難な治水の歴史でもある。


 


 


南北朝の荘園制度華やかなころ、伊勢神宮隣接地には京都の醍醐寺所有の荘園があった。
この荘園地からは度々堤防を作って欲しい旨の書簡が京都に送られていたようだ。


 


時の為政者、例えば平清盛や豊臣秀吉が大掛かりな堤防を作ったりと、治水についての苦労が偲ばれる。


 


 


 


 


 


治水の歴史だけでなく、和歌にも数多く歌が詠まれている。


 


後拾遺和歌集には後鳥羽院が「朝夕にあおく心を猶てらせ渡も志つかに宮河の月」と詠っている。


 


 


新古今和歌集には藤原定家もこう詠う。


 



「契ありてけふの宮川のゆふかつら(木綿蔓)永き代まてもかけて頼まん」


 


 


私には歌の心得がないが、それでも後鳥羽上皇の歌は宮川の滔々とながれる様に心打たれるし、藤原定家の歌には鎌倉幕府勃興期、承久の乱などを経た不安定な京の人びとの願望や祈りといったものを感じる。


 


 


 


世の平安と民の健康を祈り、遙かなる流れに思いを寄せた京の人びとの心情。


 


これも一つの宮川の情景。


 


 


 


 


 


 


台風18号や熱帯低気圧の影響で各地に甚大な被害が出ている。


 


一刻も早い救助、そして復興をお祈りしています。