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2015-09-10 08:32:40
宮川の歴史 その2
古代、神話の時代から、アクアセレクトの採水地である宮川は、歴史に登場する。
ウォーターサーバーメンテナンス工場近くの「船木」という地名については、前回お伝えした。
「宮川」が歴史に登場するのはこれだけではない。
大台町旧宮川村でも最奥の大杉谷(おおすぎだに)地区。
その先には「大杉峡谷」がある。
大杉峡谷。
日本三大峡谷の一つに数えられ、かの冠松次郎(かんむりまつじろう 1883−1970)にかのように言わしめている。
「まさしく関西の黒部峡谷」
彼は日本山岳史上に素晴らしい功績を残し、沢登りというジャンルを打ち立てて、「黒部の父」と呼ばれる男だ。彼をして「黒部峡谷に負けるとも劣らない」「まさしく関西の黒部」と言わしめる、秘境中の秘境。
私も以前歩いたが、谷の深さ、沢や淵、滝の美しさに息を飲んだ。
その大杉峡谷を含む「大杉谷地区」は、伊勢神宮の式年遷宮の檜用材において、木曽(長野県木曽町周辺)とその産地を二分する檜の名産地であった。
ただこれも中世までの話。
弘治3年(1557年 武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いがあった年)には、遷宮用材を「木曽檜」に一本化。
これは大台町宮川の地形が急峻すぎて搬出に困難を極めた、という理由らしい。たくさんの死人けが人が出た、との記述もある。
ここには今もその地の名の通り、大きな杉が多い。
大杉谷地区は林業の勃興とともに歩んだ地区で、昭和30〜40年代の国内林業最盛期には全国から人が集まり、今では限界集落とも呼ばれるこの地だが、なんと歓楽街まであったという。
いまは静かな集落で、苔むした石垣や家塀などに風情がある。
大杉峡谷、また歩いてみたい。